時間は、少し遡る。
ひんやりと、つめたい空気が頬を撫でる。否、撫でることはなく空気はただそこに存在しているだけだ。
一歩、自分が歩くことによってのみ流れる空気と、しんと、ただひたすら無音の空間。
圧倒的に重い雰囲気に息をのみ、グリープは重厚な扉の前に立った。
冥界、命の時計の保管庫。
保管庫、と、言うだけなら簡単だが、死神が管理する魂を持った生き物すべての時計がここには保管されている。
それこそどこそこの巨大図書館かそれ以上かの規模に及ぶ。各ブロック閲覧制限がかけられており、上級の死神になればなるほどその制約は緩くなるが、反面一人前になっていなかったら入ることすら許されない。
そんな場所でグリープはひとり、扉を見上げる。決して悪いことをしているわけではないのだが、どうにも気が重たかった。
しかしあまりのんびりしている時間もない。大きく息を吐くと、意を決してその扉を開けた。
死神の眼
(ヘド……ヘド…?ってあれ本名じゃないよな。真名……は、これか)
カチカチと、ただひたすら時計の針が動く音が響く部屋で、グリープは資料を漁る。
時計の音は不規則だ。この時計が刻んでいるのは時間ではなく命である。時計の主の心臓の鼓動だと、誰かが言っていた。事実かどうかは定かではないが。
死期の差し迫った彼らをグリープがずっと監視しているわけにもいかない。なので彼はインギールのアドバイスもあり、一度彼らの時計を控えておこうということになったのだ。
これならば彼らに直接会わずとも死期のタイミングを知ることができる。
通常死神が一度に持ち出せる命の時計の数は5つまでだ。
昨日の時点で死期が見えていたのは3人。だが、せっかくなのでバンドのメンバー5人分全員持ち出すことにする。
インギールが動き出した時点ですでにストルナムの死期が動いた。割と前後の幅が激しい。もしかしたら今後の動きで大丈夫だったものにまで死の危険が及ぶことになるかもしれない。念のため、全員分の把握をしておけるようにしておく。
資料を一通り探し終わり、時計が保管されている棚の前に立って、もう一度グリープは重い息を吐いた。
別に、この行為自体は悪いことをしているわけではない。ただひたすら無機質な音が響く空間が緊張感を増しているだけで、死神が命の時計を持ち出すときは、ただ持ち出しの署名をすればいいだけだ。
もっとも、グリープの場合その先の使用用途がマズイのだが。
(いまのところ変化なしか)
全員の時計を見渡し、昨日彼らと分かれる前に見ていたそれと同じ時刻を刻んでいることを確認する。
とりあえずここまでは誰にも見つからずに作業できた。まぁ、見つかっても最悪堂々としていれば問題はないのだが。
「さて、次は、と……」
グリープがわざわざ冥界に戻ってきたのは、この時計を取りにきただけではない。
もう一つ大事な仕事が残っている。
グリープは時計の音を聞きながら、保管庫の入り口にある資料と向き合った。
グリープは、とある人物の寿命、死期を確認するために戻ってきていた。
とある人物、というと少し間違いだ。正確には、とある人物「たち」、である。
もっと言うならインギールに直接死期を調べてこいと言われたわけではない。
そもそも死神以外のものに他人の死期を伝えることは当然制約範囲外だ。だからあくまでインギールには「この人たちのこと調べておいて」と言われただけに過ぎない。
だが、探偵であるインギールが、グリープに聞きたいことなんてそうそうない。大体は自分で調べられる。だから、インギールの知りえないことでグリープが知ることのできる情報と言ったらそんなに多くはない。さらに今必要な情報もそんなに多くはない。
つまり、インギールの知りたいのは、リストに出された人たち、「今夜のライブの参加予定の全員」の死期だ。
それを調べていたのだが。
(……なんだ、これ……?!)
だが、そうして調べ出した一覧。手にした紙と、自分が今見ている資料とを見比べてグリープは息を呑む。
インギールが知りたい以前に、これは自分も知っておくべき内容だった。
グリープは抽出した資料を再度見通して間違いがないか確認し、もう一度リストを見る。
3回ほど繰り返しても、間違いはなかった。
アーノルド
ビビアン
コスタ
エルザ
ギャリ―
ヘド
アイ
ジェイ
ジャンヌ
ユリウス
ケイ
ララ
ロロ
ローウェン
ネオン
クォータ
ストルナム
トライバル
ワンダ
ワンダーリリー
ゼクス
以上21名。
これが、「今夜のライブ参加者のうち、一週間以内に死亡が確定している人物」だった。
死にすぎである。いくらなんでも。短期間、一か所で。
大半がヘドとコスタ同様、ライブの開催時間中に死亡、何人かはストルナムと同じくしばらくの時間差をおいてはいるが、いずれにせよ1週間以内には死亡すると、そこにはでていた。
あまりの結果にグリープは思考回路が止まる。事態は、ヘドとその周りだけとは限らなくなってきた。それは結果としてライブの参加者のうち、半数近くにのぼる。
それだけの数が、今日のうちに死亡が確定しているなど、ただごとではない。理由は未だ不明だが、一度にこれだけの死亡が確認されるとなったら、もう事故であれなんであれ事件沙汰ではないだろうか。
(だいたいこんな人数が一気に冥界になだれ込んで来たら………?)
固まった思考の中でようやく、そこまで回ってグリープは違和感に気付く。
こんなに一気に冥界に魂が送られて来たら冥界が大騒ぎになる。と思ったのだが、違う、そうではない。それ以前に、すでに、なっていたではないか。
そもそもグリープがここのところ冥界から出られなかったのは仕事が忙しかったからに他ならない。死人が、多すぎたのだ。
ここのところどうにも事故やら事件やらが多くて、死神界はてんやわんやだった。不思議と死亡者が多く、それらのどれもが人間ではないという異常性もあり、グリープの本来の持ち場である人間用の冥界の門にも死亡した魔物の魂が大量に流れ込んできたものだから、それをさばくのに追われていた。
それが、グリープが冥界から出られなかった原因だ。
そうだ、そうだった。
偶然で片づけてしまってもいいが、これはまさか。
「―――っ」
ばさり、と。やや乱暴な手つきでグリープは再度インギールから渡されたほうのリストを見る。ライブのパンフレットが付随している。概要を開く。
主催、出演者、―――全員魔族だ。
昨日までグリープの仕事を圧迫していたのも、全員、魔族の魂だ。
予感が、頭の中で警鐘を鳴らす。
もしかして、もしかしなくても、これは、先の大量死亡と今回のこれは関係性がある。そう考えるべきだ。
ということは。
(今までの奴の死因……、ああくそ、ちゃんと把握して処理してりゃよかった!)
関係しているのなら先日までの死亡者の死因が何かヒントになるかもしれない。
そう思ったが、とにかく目の前の仕事を処理することを最優先にしていたため、彼らが何で死んだのかというところを全くチェックしていなかった。ちゃんと確認しておけばよかったと思ったがもう遅い。とにかく知ることが先決だ。
仕方がなしに別の資料に手を伸ばしたところで、恐れていたことがひとつ、起こってしまった。
「何か、探し物?」
「っ」
キィン、と、耳鳴りにも似た感覚とともに、その声がしてグリープは思わず動きを止めた。
やばい、見つかった。慌てて振り返りそうになるが、反射より驚愕が勝って動きが止まったことは幸いだったかもしれない。無駄に高鳴る鼓動を落ち着かせ、平静を装ってゆっくりとふりかえる。視界に入ったのは、グリープと同じ死神の、だが、彼よりもはるか上位にあたるこの部屋の番人。
図書館でいう司書のようなもので、この膨大な数の命の時計の管理をしている、古くからいる死神だ。
「……ええ、っと、はい、先日の、魔族の大量死亡のことで」
差し障りのない返事をしながらグリープはゆっくりと笑顔を作る。自分の心臓の音が五月蠅い。先ほどは突然声をかけられて動揺したが、別に今は悪いことをしているわけではない、わけではないのだから普通に返事をすればそのまま乗り切れるはずだ。
探したものを何に使うのかと、問われたら答え難いのだが。
不信感さえ抱かれなければ大丈夫だ。そういいきかせて笑顔を作る。
グリープのその考えをよそに、目の前の死神はことさらゆっくりとした動作で首をかしげる。
その人の髪はグリープのそれとよく似た色をもっていた。それが真っすぐにすとんと伸ばされて、床にまで届くかのような長さで、揺れる。
首を傾ける。ただそれだけの動作なのに、グリープには酷く威圧感を感じた。
この死神のことをグリープは知っているが、知らない。
時計部屋の管理人ということは知っているが、いつからいるのかとか、もともとは何をしていたのだとか、なぜここに配属されたのだとか、そもそも普段はなにをしているのかとか、そういうことのほとんどは知らないままだ。
ただ、自分の上司が敬語を使っていたからそれよりは上だろうということと、声の高さとしゃべり方から女性だということぐらいしか。
「魔族の……?ああ、殺されたやつね」
「殺害、なんですか」
「そう、困るよねぇ、本来の寿命関係なしにくるからこっちの仕事が増える奴」
「殺害したのは……?」
「さぁ?そこは死神の管轄外だよね?何でそんなことが知りたいの?」
今のは失言だった。
話が自然と自分の知りたい方向に進みかけたから油断した。ついうっかり口を滑らせてしまったが気づいたのはもうあとのまつりだった。基本的に死神は死んだ相手のことは死因以外は気にしない。そういう探偵じみたことはその相応の者にやらせればいい。
これでは相手に、何でという疑問を誘導したのも同じではないか。
「え、いや、単純に好奇心で…」
グリープは少し言葉に迷う。
彼女は、そんなグリープの焦りを知ってか知らずか、少し見送って、彼の見ていた資料を一瞥。そうしてもう一度彼を見た。
グリープは、息を呑む。
しまった、机の上に資料を出しっぱなしだった。
時計の持ち出しの署名もそこには書いてある。今日のライブの死亡者が抽出されている一覧もある。持ち出した時計の名前にいくつか該当者。そして先日の殺害の犯人を今、聞いた。
「……うん、そっか、なるほど」
その言葉にグリープは無意識に一歩足が下がっていた。
なるほど、とはなんだ、なるほどとは。自分が今みていた資料からまさか自分のやろうとしていることを感づいたのか。
もっとも、少しカンのいい死神ならわかるだろう、先の死亡者の死因、今回の大量死亡のリストと、該当者の時計。
だが、この状況ではもう、ごまかすしかない、何を聞かれても。とにかく。
下手にいいわけはしない。此方からは口を開かず、聞かれたことにだけ答えればいい。それまで涼しい顔をしていろ。
グリープはその思考の間、表情を動かすこと無く相手の目の少し下を見続けていた。
しかし、その後に続いた言葉はグリープの焦りとは裏腹に意外なものだった。
「きみ、グリープくんだ」
「……は?」
緩やかに和やかに名前を呼ばれて、思わず間の抜けた声を上げる。
そう、そうだ、その通りだが、なぜ今ここでそれを確認されたのだ。大体にしてこの目の前の死神が自分のことを知っているとは到底思えないのだが。
グリープの反応に気を良くしたか、笑いながらその死神は資料室の受付の椅子に腰をかけて足を組む。そうして机に腕をのせると、ややだらしのない格好で開きっぱなしになった貸出申請書の名前をなぞった。
そうか、持ち出し者の死神の名前がそこに書いてあった。
この死神に名前を知られている自覚が無かったが、それを見たのなら納得がいく。それはわかるが、なぜ今ここでそれを再認識する必要があった。
「聞いてるよ、グリープくん。最近一人前になった子の中でも一風変わってるみたいじゃない」
「は、はぁ」
「主に人間界の門番を務める。任務態度は真面目。10の仕事を11で返し、外界とも積極的な交流を持つ」
「え…と、ありがとうございます?」
「そうそう、その社交的な態度と、本人自体の甘い見た目に潜むちょっとした棘が好評で、同僚、上司とも関係は良好」
後半は褒めているのか皮肉っているのかよくわからない形容をしながら楽しそうに笑う相手にどう反応したらいいかわからない。彼女が気にしている話題自体が今の自分の行動ではなく、グリープ自身になっているのなら、それはまぁ話題の逸らしというか、ごまかしがきくからいいのだが。
そしてそこまで言い切った相手は、そこで一度机の上に肘をおき、頬杖をつきながら身を乗り出した。
「それから……、取引上手で世渡り上手」
言って、こちらを見ている瞳をきぅと細めて、口の端を釣り上げた。
「……それは、どういう」
「そのまんまの意味だよぉ?真面目で勤勉の裏で相当な取引上手だって聞いてるよ?いいじゃない、取引上手。そのくらいしたたかな方が私は好きだな」
一瞬答えに迷う。迷った挙句に質問をすれば、当たり前のように聞きたいこと以上の答えが返ってくる。
彼女の言う取引上手の意味がなんなのかはよく分からないが、とくに否定もしなかった。死神として生きていくうえで、仕事間の取引というやつは、したことは確かにある。
別に取引と言えどやましいことをしているわけではない。相手の要望を聞く、見返りに自分の望むものを要求する。ちょっとした、ギブアンドテイクのようなものだ。
だが、それが今どうしてこの目の前の死神の口から出てくるのかがわからない。
グリープは良くない流れを感じて早めにこの話題を切り上げようと何か話のネタを考える。
「そんなグリープくんに朗報だ。私と取引しないかい?」
言われてグリープは小さく目を細めた。
死神の取引は大体上のものから持ちかけられることが多い。そう言われれば、なるほど、もしかして単に自分との取引が希望なだけか。
ならば適当にそれを受け入れて切り上げてしまえばこの場を乗り切るのはたやすい。
「いいですよ、なんですか」
とにかく今はこの場を乗り切って自分の調べ物をすることが優先だ。
そう思い手早く済ませるために了承の意を示し軽く視線を下げた。目の前の相手はそれを見て満足そうに笑むとゆるりと人差し指を動かす。
そして、グリープの上着のポケットを指差した。
その中には先ほど持ち出した時計が。
「……寿命の彼、助けたいんでしょう?」
「なん……っ?!」
今度こそ、グリープは反射的に相手を見る。
その相手は指先と顔の角度はそのままで、ただ舌で己の唇を舐めると、もったいぶるように言葉を続けた。
「知りたいことがあるなら聞いていいよ、君の力になってあげる」
「なんで、です、か」
「うん?どれについての何でだろうね。君がやろうとしていることなら君を見てればわかるよ、資料の出しっぱなしはいただけないね。持ちかけた理由なら単純に私が君を気にいったからだ、世渡り上手は嫌いじゃない。それから、可能性を追いたい、死神が他人を助けたっていいじゃないか。……できるのならね」
できるのなら。
言われてグリープは掌を握りしめた。色々なことが起こり過ぎて呼吸をするのが精いっぱいだ。喉の奥が乾いている。
あまりの展開に計算がついていけていないが、どのみち自分のしようとしていることはいまここで知られてしまったらしい。ということはこれは、いよいよこの取引を飲まないわけにはいかないのではないか。
「私の条件を聞いてから決めてくれればいいし、別に受けてくれなくてもいい。まぁ受けないなら悪魔の彼は、ただ死ぬだけだと思うけれど」
「っ……」
「そう固くなるなよ、なにもグリープくんを取って食おうっていうわけじゃないんだから」
時折挑発を混ぜながら言葉を少しずつ詰めていく。グリープは苦手なタイプだが、主導権を握られてしまったからにはもうどうしようもない。目の前のそれがなにを考えているのかはわからない。死神よろしく不気味な笑みをただ、深くしていくだけだ。
だが。内容によっては、これは。
これはまたとないチャンスかもしれない。
「3分間、時間をあげるよ。…………よく考えて決めなさい?」
ポケットに入れたヘドの時計の針の音が、嫌に耳に響いた。
PR