キキーモラの朝は早い。
まだ日が昇りきらないうちに動き出し、まずは屋敷の客間のカーテンを開けるところから始まる。
別にいちいち手作業で開けなくとも、この広い屋敷の主は魔導でさっさと開けてしまうことが出来るのだが、キキーモラはこの作業が好きだった。
カーテンを開き窓を開放する。まだ明けきらない朝の空気がふんわりと部屋の中に入ってくる、その瞬間の空気はとても澄んでいる。
綺麗なものは、好きだ。
だからあえてキキーモラは手作業を好んだ。
この屋敷に勤めて何年になるか、もっとも、精霊である自分は人間換算の年月など大した意味は無いのだが、少なくとも自分より先々代の「キキーモラ」からずっとこの屋敷の主人に仕えている。“主人に”という言い方は語弊があるかもしれない、どちらかというと自分が仕えているのはこの“屋敷”にだ。
この屋敷を常に綺麗にしておくこと、それが自分の義務であり意義である。
そんなこの屋敷。通称「魔王の別荘」。
なんのことはない森の中にひとつぽつんと、というよりは堂々とたたずんでいる大きな屋敷。
静かな森の中に建っているにしては明らかに不自然な建物で、森の影に隠れるわけでもない大きさと広さであるはずなのだが、どういうわけかそれに違和感を感じるものはひとりとしていないのが特徴だ。
行こうと思ってもそうそう辿り着けるものでもないらしく、森の中で道に迷って死にかけたものか、屋敷の主に招かれた客しか入ることはできない。
多少の例外を除いて。
屋敷の主は無論、自分のような屋敷に常在しているタイプの臣下はもとのこと、キキーモラの苦手としている淫魔なんかの移動タイプの配下であるとか、身内以外にも、主のお気に入りである魔導師の卵である少女のほか、格闘女王様であるとかは比較的出入りがある。
これらは当然招かれるべき客ではあるのだが。
招かれざる客としては、勝手に庭園に入り込んで薬草をむしっていく見習い魔女は、玄関から入らないが魔王様には黙認されているようだ。(結構あの怪しい薬のお世話にもなっているようだし)
あとは、そう。
勝手に書庫に入りこんでは書物を漁っていくあの魔導師だとか。
そう思いながら屋敷を歩いていたら、通路の奥の部屋から物音がしてキキーモラは足を止めた。
噂をすればなんとやら、この時間にあの部屋を使用するのは多分あの魔導師様だ。
部屋、というのは語弊があるかもしれない。その先にあるのは、屋敷の浴場だった。
疑問を抱く理由も無い。早朝で浴場といったらまぁ9割朝風呂だろう(残りの1割はご想像にお任せする)。彼が風呂掃除なんかするわけが無いだろうし。
時たまある、彼の早朝早すぎる朝風呂と、キキーモラのやはり早すぎるカーテン開けの作業がかち合うこと。
このタイミングで歩いていったら丁度そこから出てきた相手と鉢合わせになるだろうか。
別にキキーモラとしてはそれはそれでただ、「おはようございます、いい朝ですね」と挨拶をするだけなのだから構わないのだが、この時間にここから出てきた相手に挨拶をすると、顔をしかめられること、それも彼女は知っていた。
なので彼女は素知らぬ顔で僅かに足を速める。
普段ならそんなことせずとも、相手の方が気がついてこちらを避けてくるのだが、どういうわけかこのタイミングではこの相手は注意力が散漫になるらしい。
以前相方のブラックキキーモラがその辺を突っついていたら嫌に慌てていたっけ。
そう思い少しだけ顔が緩む。
意外ととっつきにくそうで面白い人だ、あの人は。
一見すると怖そうで、外見だけだと近寄りがたくて、周りからの情報だとむしろ近寄ったらマズイような言われようだが、実際付き合ってみるとそうでもない。
小奇麗な見た目の割りに大雑把で、そのくせ変な所にこだわって、なかなかどうして、良くも悪くも、人間臭い。
当たり間のように朝に弱くて、ふとしたところでどこか抜けていて、好きなものにはのめり込んで、人の話は余り聞かなくて、なのに相談はいやいやながらも聞いてくれて、付き合いたくなくても付き合いがよくて。
だけどとても、芯が強い。
どこがどうとか上手く表現はキキーモラには出来なかったが、これはもうおそらく彼の本質の堅さの所以だろう。
だから、きっと、この屋敷の主に気に入られているのだ。
だって、そう。
いくら好き勝手に入って漁っていくとはいえ、黙認されているということは、一応これらも招かれた客ということにはなるのだろうから。
それはさながら、野良猫に餌を与えているような、飼い犬を放し飼いにしているような。
「あら」
「っ!」
……そんなことを思いながら歩いていたら、うっかり歩くペースが遅くなってしまって、丁度そこから出てきた相手とバッチリ目が合ってしまった。
「えっと、おはようございます、いい朝ですね」
顔を合わせるつもりがなかったから頭の入っていた言葉をそのまま出してしまった。
もうちょっと気の利いた言葉でも言えたらよかったのだが。
せっかくなのでもう少し言葉を捜そうかと思ったが、生憎何も出てこない。
理由を聞いたところで嫌な顔をされるだけだろうし、大体理由なんか知っているし。
主の所在を聞いてもいいが、その会話の流れでも複雑な顔をされるだろうし。
「お出かけ日和ですよ、ウィッチさんのお店に新しいハーブが入ったとか」
仕方がなしに全く関係ない話題を振ってみる。
彼は一瞬戸惑うようにこちらに視線を移したが、すぐにいつも通りのそれになって「そうか」と一言だけ返してきた。
とりあえずこの場は回避した。
朝から不機嫌なツラなど見るものではない。
もとより普通にしていれば、彼の顔は目の保養になるものだ。「綺麗好き」のキキーモラとしては見ておいて困るものでもない。風呂上りならなおさらだ。
もっとも、その顔だけでいったら屋敷の主もその部類になるのだが(同僚の淫魔も綺麗は綺麗なのだが、いかんせんあの化粧のケバイかんじが好みではない)。
何はともあれ、彼はこのまま外に出かけるのだろう。それが常だ。
「行きます?」
「気が向いたらな」
「はい、いってらっしゃい?」
「……“帰って”こないぞ」
「ああ、じゃあ、……おつかれさまでした?」
「…………どう言う意味だ」
「他意は、ありません」
くすりと、笑いかけてキキーモラは再び廊下のカーテンに手をかける。
彼もそれきり言葉は交わさず、細く息を吐くとキキーモラが来た方向へ歩いて行った。
朝から見るには、幾分かいい物を見たかもしれない。
綺麗な物は、好きだ。
その後姿を少しだけ見送って、キキーモラは作業に戻る。
さぁ、次はシーツの洗濯が待っている。
パリッと干して屋上一面に白を飾るのだ。
キキーモラの朝は、早い。
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