もう一度だけあの偽りの優しさに触れたら、それだけでもう駄目だと思った。
あれは優しさではない、だからダメなのだ。優しさだったらよかったのに。憐れんで優しく差しのべられた手だったら簡単に振り払うことができた。だけどそうではないのだ、あれは優しさなどそんな生ぬるいものではなかった。
シェゾは奥歯を噛んで瞳を閉じた。
眉間にしわが寄っているぞと一言言われたが、その言葉はまるまる無視をする。だからなんだ、寄せているのはお前だ、なぜおまえがここにいる顔も見たくない声も聞きたくないなのに何故なのに何故。
「何故俺の目の前に現れた。」
憎しみの感情をこめてそれを吐いた。口を開いたついでに充満した匂いが鼻につく。
鉄錆、汚れた水、奥歯が浮くようなそれは血の匂い。
シェゾは握った剣を一振りするとそれについた赤を払う。
その様子を見てそれはしかし眉ひとつ動かさなかった。
「何故と、言われても」
たまたま通りかかっただけだ、そうたいして興味がなさそうに言われる。嘘だ、嘘だ、何か目的があってここに現れたはずなのだ。こいつが何の意味もなく自分の前に姿を現すなんてことはない。
自分だってなんの意味もなくこいつの前に姿を晒すことがないように。
するとその意を汲み取ったか、そいつは少しだけ鼻を鳴らすと小さく笑った、嘲笑だった。
「なぁに、たまたま通りかかったらお前がいた、だから」
からかいにきたのだよ。今度はそう言った、やつはたしかにそう言った。
ほぉら見ろ、また無駄なことをしていると自分を嘲笑いに来たのだ。そういうやつだコレは。
無駄に暇な魔王様。気まぐれ。暇つぶし。嫌がらせ。厭味。こちらの感情など露知らずただ自分の目的をかなえるためだけにこちらにちょっかいをかけてくるはた迷惑な魔王だ。
自分のしたいようにする、だけの。
シェゾはもう一度息を吐いた。踏み出した足は草を踏んでも乾いた足音は立てなかった。当然だ、足元は血だまりである。
人を殺して魔力を吸って自分のしたいように生きてきたそれがシェゾの生き方だ。血を見ても死体を見てももうたいして何も思わない、それが。
それが、それが。
「しかしまたまぁ派手に殺ったなぁ」
もう一度たいして興味のなさそうな声音で魔王がつぶやいた。コレも何だかんだで魔王である。人の死体ひとつ、殺人の一件見たところで特に何も思わないのだろう。道徳もくそもあったものではない。自分の世界だけ守れていればいいと思うような奴だ。
そう、興味がないのだ、コレは。
人を殺すこと、道を外すこと、その行為に興味がないからどうとも思わない。何も思わない、何も感じない。
シェゾが自分を殺してこらえてきた感情をすべて「興味がない」の一言で片づけるような奴なのだ。
ああだから会いたくない!!
どうあがいたってもうはじめから違う、土俵から違う、自分がこうやって必死に守ってきたものを一足飛びで飛び越えてそして鼻で笑うこいつにだから会いたくなんかなかったのだ!!
だってあってしまったら思ってしまう。
どうあがいたって感じてしまう。
何故自分はこんな道を選ばなければならなかったのかという抱きたくもない劣等感を。何故こんなことをしなければならないのかという罪悪感を。
否、違うのだ、自分は何とも思っていないはずなのだ、人を殺すことに罪悪感なんて微塵も感じてなどいないのだ、そうでなければ自分の生きていた道を否定することになってしまう、そんなことだけは認めてはならないのに。
自分のことを自分が否定したらもう誰も認めてくれないのに。
違う、違う違う違う!
こんな感情を抱かせる奴が嫌いだ。それでも何も感じていない奴が憎い。
これが優しさならよかった。そんなことしたらだめだと一言優しく言ってくれれば突き放すことができた。
だが、これは優しさなどではないのだ、嘲笑だ。だからダメなのだ。
どうあがいたってプライドに触れてくる。触れたくないところを抉ってくる。
それは自分の弱いところを無遠慮に抉ってくる。
だめだ、だめだダメなのだ。
シェゾは瞳を閉じて奥歯を噛みしめた。握りしめた手には汗がにじんでいた。
大嫌いだ。大嫌いだ。
「どうした?辛そうだな?」
「誰の、せいだ…」
「……自業自得、なのだろう?」
ああだってもう一度それに触れたら、今度こそ自分は弱音を吐いてしまいそうなのだ。
(その存在は、自分に)(弱くていいのだよと)
(それは)
その笑いは優しさなどではないはずなのに。
「くそっ…」
(それは、素直になれない迷子のための)
その嘲笑は静かに諭す。弱さを認めることもまた強さなのだと。
(誰かのせいにしたい、何かのせいにしたい)
(その対象に、彼なら、笑いながらなってくれるのだけれど)
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